「個」と「場」といのちの話

「個」と「場」といのちの話ずっとブログを書こうと思っていたが、慣れない通勤で疲れきってしまっていたので書けなかった。
(最近は復職に向けて、慣らし運転のために通勤している)

「死生観」について、ここのところしばらく考えていた。
うまくまとまらなさそうなので、多分、脈絡の無い文章になることと思う。

ちょっと前に田坂広志さんの「未来を拓く君たちへ」を紹介した。

mixi にも同文を載せていたら、そっち側にコメントがあった。

そこには特に感想というものはなく、ただマイミクさんが自分のマイミクさんを紹介してくれていた。
紹介された先を訪れると前職の先輩に当たる方(面識は無い方)が、エーラス・ダンロス症候群という希少難病の可能性があり、患者会に参加しながら日々大変なご苦労の中で生活されているという日記に辿り着いた。
病気自体が医者にもあまり知られていないため非常に日常生活も含めて苦しんでおられるとのことであった。

その方の日記の中で、マイミクさんが「未来を拓く君たちへ」のポッドキャストを紹介してくださっており、いくつかやり取りを行う中で「場の研究所」について教えていただいた。

実際に勧められて聴いたのはこのページの中にある、6/15分の音声である。

6/19分はまだ聴いていないが、こちらは元ソニーの出井伸之氏も参加されているようだ。


田坂広志さんの講演(もしくは本)の内容と清水博さんのお話の類似点


答えのない問い、そこに何か大事なことが隠れている。

なぜ、いのち、が存在しているのか。
なぜ、こころざし、が必要なのか。

「認識」として、志とはこれこれこういうこと、という知識を持ってみてもそれだけでは意味が無く、

「存在」として、深く問う心がなければ、志を発揮することもできない。


いのち、について

場の研究所の勉強会の音声の中で、もっとも私が惹き付けられたのは、死を想うということ。

田坂さんの講演では「メメント・モリ」が出てくる。
これは、前からちょくちょく目にしていたが、そういうモノに最近またよく出くわす。
ちなみに田坂さんの講演では、我々がその生を終えるときに、礎となるという覚悟について語られている。
いつしか我々人類に戦争のないステージが待っているはずだという想いも。

清水さんの「場」の話では、「救済」という言葉が「死」と関連づけられて語られる。
仏教なども取り入れられた考え方のようだが、我々の「いのち」は二重生命として考えるべきということだ。
「個」としてのいのちが集合して、さらに大きないのちが存在している。

たとえば、我々人間と、地球の関係
もしくは、細胞個々と、ひとりの人間の関係

これら二重にかさなるいのちの間には空間が存在している、それが「場」である。

生命のシステムとして「場」に大きないのちのはたらきがあるはずである。
またいのちを考える際には「死」の果たす役割を考えなければならない。

いのちとは「死」含んだすべてのものを指し、超越した「存在」として捉えるべきである。

先日、奥さんの実家の愛犬が亡くなった。

もちろん悲しかったけれど、不思議なことに、今は大きな「いのち」の中に「存在」しているものとして妙な納得をしている。


「場」の中でねがいを合わせることで「救済」される

ここで「救済」についてだが、「場」の中に入り「ねがい」を合わせることで我々は補い合うことができる、と清水さんはおっしゃった。
ひとりの力には限界があり、他の誰かひとりを救うことも困難である。
しかし、「場」の中に入ることでたくさんの「ねがい」を合わせる、すなわち補いあう(お互い様)ことでひとりでは発揮できない力が生まれる。

そこでは「元気」が湧き出てくるのだ。

そして、そういう「場」であれば我々は作り上げることができる。

うつ病になってみて初めて、自らの「死」についてまともに考えた、というよりも身近に感じたといったほうが正しいかもしれない。
そのような自分の苦悩にまみれた状況の中において、同じ境遇の人間、同じ経験を持つ人間の心強さ、そういったものを感じずにはいられなかった。マイノリティとしての苦しみ、それを共有できる、もしくは同じ立場でない人であったとしても、知ってもらうというだけで力が湧いてくるという事実、実感があったからだ。

うまく言葉にはできなかったが、この難病を抱えて生きておられるマイミクさんのマイミクさんの言葉を見ても、やはりそう感じる。
私のマイミクさんの中には、他にも重い病気に苦しみながら、強く生きている人たちがいる。

私の病気はそれほど重くはないものでもあるが、そういった同じねがいを共有できる「場」を見つけられるかどうか、その中に入れるかどうか、ということについては、なんらかの苦しみを持つものにとっては重要なファクターであるように感じるのだ。
それをうまく表現することができないが、この清水先生の話を聴けば、それぞれ何か想うところがあるのではないかと思う。

いのちについて考えるとき、「死」の意味を問わずにはいられない。
そこに答えはないのだが、病気という苦悩から「救済」されたいとねがう心は、「死」の意味を突き詰めて考えることで元気をもらえる気がするのだ、なんとなく。

ただし、「場」は必要だろう、一人で考えこむには少し重すぎる。


「場」についてもっと知りたい

また、苦悩や苦しみを「救済」するという意味においての「場」としてだけではなく、職場や地域などにおいても「場」について真剣に考えて行く必要があると感じている。
これまでの自分は、職「場」の中で同じ「ねがい」を持つことが出来ていたか。

「場」とは何か、難しく理解できていないところも多い。
引き続き、勉強してみようと思っている。

清水博さんと松岡正剛さんのつながりがあるようなので、さらに興味深い。
結局うまく書けなかったけれど、これ以上アウトプットに時間を割くより、勉強を進めたいと思う。

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