百か日法要を終えて

先週末、昨年秋に亡くなった義理のお祖父さんの百か日法要が執り行われました。
忌日法要については、お通夜、お葬式、初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日(四十九日、満中陰)、全て法要に参加し、今回の百か日を迎えました。

片道1時間ちょっとという距離とはいえ、まだまだ小さい子供たちを連れて法要に参加するというのもなかなか大変なことではありましたが、生前とても可愛がってもらったひ孫たちを連れていくことが、お祖父さんの供養にもなるのではないかと思い、家族で頑張って週末は実家に通いました。

法事でお坊さんがお経を唱えている間、お経自体は聞いても理解出来ないので、いろんなことを考えました。生前のお祖父さんのこと、親族というコミュニティについて、死について、ご先祖様について。そんな中、長女は退屈ながらも賢く正座してじっとすることができており(保育園がお寺なので、日々練習している)、次女はお坊さんの叩く木魚が気になるようで、たまに脱走して木魚を奪いに行ったところを、親族の誰かに確保される、というような感じでした^^;

悲しみや寂しい感情、というのは日が過ぎていくとともに少しずつ薄れていくものです。喜怒哀楽といった感情が少しずつ執着がとれていく仕組みになっていることが、人間が生きるために必要なことであるようにも感じます。ただそういった中でも、しっかりと目に焼き付いている光景があり、生前のお祖父さんのひ孫をいじめるいたずらっぽい声や、笑顔、亡くなり棺の中でもう話すことのできなくなり目をつぶっている顔、泣きながら別れを告げる家族の顔、今でもありありと思い出すことができます。

百か日法要の際、お坊さんが教えてくれたことは次のようなことでした。

生きとし生けるものは、全て下層から「土」「水」「火」「風」「空」の要素のもとに始めて存在することができており、この条件の中で、代々ご先祖様から始まり、亡くなった方、これから生まれ来る赤子など、たくさんのいのちがこの世に過ごすことができているのであり、そのような事に思いを巡らすことで、少しでも諍いの少ない世の中にしていけるのではないでしょうか。

人が亡くなる、という経験は辛いものであり、あまりしたくないものです。
しかし、避けられるものではありません。
ですので、その経験の中で、どのような思いを巡らし、何を感じることができるのか、ということがとても大切なのだと思います。
次女にはまだ早いものの、4歳の長女にとっては、とても大切な経験であってほしい、と想うのでした。

お祖父さんは、百か日法要の後、お墓に納骨されました。
少し小高い丘の、とても素敵な場所です。
藤棚があるお寺さんで、きっと藤が咲く頃にはとても綺麗な景色になるのでしょう。
また、時どきに足を運び、ひ孫たちの成長を見せてあげたいと思います。

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コメント

“百か日法要を終えて” への2件のフィードバック

  1. にしやんのアバター
    にしやん

    生死観のとらえかたで人生かわるよね。
    ねたきりのばあちゃんに、次男五歳が「おおおばあちゃん、もうすぐ死んじゃうの?」
    と言い放ち、ばあちゃんはひさびさに笑いました。

  2. takeyasのアバター

    コメントありがとうございます、今気づきました^^;
    携帯のアドレスからコメントしました?
    実はDisqusという仕組みを入れてるのですが、携帯のほうにはそれが表面上でておらず、PCからみてもにしやんさんのコメントが表示されないのです。
    ねたきりのおばあさんに、ストレートに聞けるなんて、すごいですよね。というかもう5歳というのにびっくりしまくらちよこです。

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