年度の終わり

久々にiPodからブログを書きます。
今日で2010年度も終わり。
今年度は一年通してちゃんと働くことができたということに先ず感謝。

大震災のこともありますが、日常を不自由なく送れるということに、このような有難さを感じることができる、ということ自体が、とても素晴らしいことのように想います。

場の研究所の清水博さんが、この震災における何かの役に立てば、と寄稿されている文章には、「持つために在る」から「在るために持つ」とタイトルがつけられています。

http://www.banokenkyujo.org/?p=1691

私は心の病に倒れているとき、いつもこの清水さんの勉強会の音声を聴きながら、まさに癒やされていたのですが、この文章にもあるとおり、いのちの力というものは、とても強く、創出力があったからこそ、回復に至ることができたと感じています。この創出力は、家族という場における創出意欲を支える働きがあったことはいうまでもありません。

個の話と同じではないことはもちろん分かっていますが、被災地の復興においても、このような創出意欲の必要性を清水さんの文章から強く感じました。

長い期間に渡る支援が必要になることは明らかですので、私も継続して被災地の支援となることを考え続けることで、自らの風化させないよう心がけたいと想います。

今年の終わりに

今年もたくさんの人にお世話になりました。
本当にありがとうございました。

去年は11年ぶりに関西に戻ってきて、転職などバタバタしてましたが、今年もいろいろとありました。

年の初めからうつ病で休職、1月2月3月はドン底というやつを味わいながらもジワジワと回復し、10月には復職。
復職してから3ヶ月が経過しました。
元通りとはいかないまでも、なんとか9時〜5時レベルでは働けそうな回復具合です。
まだまだボケーッとサボリ気味ながらの勤務時間の過ごし方ですが、すこしずつ仕事に集中できる時間を増やせてる感じです。
これを寛解、というのかどうかはわかりませんが、とりあえず順調にいってるであろうことはなんとなく分かります。
負のループから抜け出した、ということのようにも感じます。
今後も気をつけねばならないものの、以前のように潰れるまで強引に前に進むことはしない(できない)と思います。

今年はこれまでの人生の中で、もっとも出会いの少ない一年でもありました。
毎年新しい人と出会うのが楽しくて、新しい出会いの中でその人の感性に触れるたび、新しい自分がつくられていく、そんな感覚を持っていましたが、今年は出かけることも圧倒的に少なくなって、内向きというか自分の内面・精神性の部分をずっと見つめてきました。

そんな中、自分の中身を確認するのに、一番役に立ったのはウェブでした。
ウェブのコンテンツは一昔前と違って、画面の向こうに座っている人がイメージできるようになってきてると思います。
ブログを見ていても、テクニカルな情報だけじゃなくて、「身の上話」をしている人がよく見つかります。
自分語りをしているとき、画面の向こう側の人は、魅力がにじみ出ているように感じます。
実際に面と向かったときに話せないような身の上話、こういうのがさらっと書けるのはウェブの魅力だと思います。
そして、それを読むと、逆に自分の感性・内面というものが客観的に見えるような気がするのです。
もしくは自分に対する新たなハッとするような気付きを与えられるのかもしれません。
小説みたいな完成されたものでなくとも、物語には力があるということだと思います。

ブログをちゃんと書いてみようかなと思ったのも、そういうウェブの先輩方の影響かもしれません。
まだウェブとのつきあいかた、というのがしっくり来てない状況ですが、分からないながらも書き続けていくということが結構大事かなと思っている今日この頃です。Twitterをはじめとするいろんなツールを試したりもしています。
今年はそんな中、この文章を含めて短いもの、長いものありますが、131のなにかしらを書きました。

ブログに書いてた中で、一番印象に残っているのは場の研究所、清水博先生の一連の勉強会の内容です。
現代の社会は認識の問題を扱っており、存在の問題を扱っていない。
今置かれている現状を捉え、生きている、のではなく、生きていく、という形をつくっていかねばならない。
そのような中で、「場」のはたらきの力がどのようであるか。
苦悩からの救済、という意味での宗教、おもに仏教の果たす役割。
この世に果たして自分というものが存在するか、という問い。

そこから繋がり、ダライ・ラマ14世の自伝を読みました。
人の自伝を読むのは初めてだったかもしれません。
それぞれの人に与えられたものを運命とか宿命とかいうのであれば、このダライ・ラマに与えられたものがどれほど大きなものであるか、そんな中でも活き活きと「生きていく」という形を語ってくれている、ダライ・ラマ14世。
存在の問題に関するもの含め、彼の思想がギュッとつまった本でした。

ダライ・ラマ自伝 (文春文庫)
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こんな風に日々ぐちゃぐちゃいろいろと考えて、アウトプットできることもできないこともあります。
うまく言葉にできないことは消えてゆくこともあります。
何かカタチになったものはここに書こうと思ってはいますけれど。

いつも乱文、読んでくださっている方、ありがとうございます。

何か自らの精神性について深く考えるとき、結局いつも辿り着くのは家族への想いです。
健康第一、という言葉も、家族への想いがあってこそ。

2009年という人生の一ページ、こんな一年も悪くない。
苦しみの中でも、身近で大切なひとたちへの想いを強くすることができた一年だったように感じます。

年末年始と寒くなるそうなので、皆様お身体を大切にお過しくださいますよう。

清水先生と田坂先生の対話「地球時代の科学と生命(いのち)」

行きたかったけれど行けなかったお二人の対話。
ダライラマ14世の来日のプレイベント第一回として開かれた「地球時代の科学と生命(いのち)」

いろいろとウェブで感想などあげてくださっている方々がいらっしゃるので、リンクをまとめておきます。
(予想通りたくさんの方がブログをアップしています。参加できなかったけれど、少しだけでも臨場感を味わえる、良い時代です。GoogleアラートとTwitterで情報を集めました。)

会場はこちらでした。
私に場の研究所を教えてくださった先輩が、入り口の写真を撮っておられました。

時系列に見つけた順にリンクを並べておきます。

日笑さんのブログ
藤沢久美さんのTwitterポスト
多読書ブロガー石井さんのブログ
つなぶちようじさんのブログ その1 その2
いろは堂西潟さんのブログ

どういうバックグラウンドの方がどんな風に感じ、どのようなアウトプットになったのか。
非常に深く考察されている方もいて、そういうものが読めるということが本当にうれしいです。
いろいろな視点からのアウトプットを見て、無い頭でどのようなインプットがあったのかを想像するしかありませんが、実際にその場で聴いていたらもっと違ったポイントで感じるものがきっとあっただろうな、と思うと残念でもあります。

少なくともこれらの方々が当日は同じ場(空間)に存在し、場に対してはたらきかける力を持っていた(清水先生の言うところの劇場の観客として)ということに、なにかしらエネルギーを感じずにはいられません。
そういうのを縁というのかもしれません。

前から勉強していた、場の研究所の公開されている限りの音声は聴きました。
何度も繰り返し聴いているものもありますが、どれもこれも深く考えさせられます。
2008年以降はYoutubeで一部のみとなってしまって残念な限りです。

仏教的な思想については、以前から少し勉強する必要があると思っていますが、これらのレビューを読んでさらにその思いが強まった感じです。

今は、五木寛之さんの書いた私訳歎異抄をまず読んでいます。
(これは場の研究所の中で清水先生が歎異抄をおすすめしてたことと、そのとき読んでいた五木寛之さんの「天命」という本の中で同時期に出てきたことで、運命的に読まねばと思ったので買った本なのですが、仏教思想の中では避けて通れないものなのですね。)

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さて、これを機会にダライ・ラマ法王14世についても知ろうと、文庫版の自伝を読んでいます。

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まだ読んでる途中ですが、わずか15才にして中国の侵攻による必要性から、一国の政治的、宗教的指導者として政権を引き継がざるを得なかった状況というのは本当に想像を絶します。
ダライ・ラマ来日の本イベントには、もう一人の先輩が参加されるそうなので、感想が聴けるのを楽しみにしています。

私が関西に戻ってきて離れてしまった東京の二人の先輩ですが、昔一緒にアルビン・トフラー氏の講演を聴きに行ったことが懐かしく思い出されます。弱い紐帯という概念がピッタリ来るような関係なのかもしれません。

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道徳・宗教の差

場の研究所メモ(20080516)

道徳、我なる存在が在る、という前提において善悪など考える

宗教、我がそもそもあるかどうか、その我が(あるとしたら)どこにあるか、ということを考える
(神様がどうのこうの、ではない)

志は道徳の文脈の上でもちいられる

宗教は苦しい状況下において生まれてくることが多い

受想行、二重生命など

場の研究所メモ(20080418)

「存在の場」の中におけるいのちのはたらき

受…情報を受け止める
想…それなりに考える
行…いのちを表現する

行を特に大切に思っている
(生命力、存在感、の表現力)

これを繰り返していく
流れていく時間の中で、場が変わってゆき、ドラマが生まれる(生きていくこと、が起こっている)

このような中で実は場自体もいのちを持っており、二重生命の形ができている

現代という時代においては、グローバル経済と資本至上主義の中で場を不要のもの、無駄なものとし、削られていく
存在の場を奪っていくことはブロイラー化していく、ということである

その中でいのちの価値が失われていく
生命の存在価値は主観的なものになっており、相互に存在価値を認められなくなっている

自分の存在している場を、自らがケアしていくことが必要であるにかかわらず、外部に任せてしまっている

自分の生きていく形を自分でつくれない

苦悩が生まれてくる

ではどのように苦悩から救済されうるか

存在の考え方を、天動説から地動説へと転回させていくことが重要なポイントである

風と共に在る

場の研究所メモ(20080418)

場の研究所の勉強会を聴きながら通勤中。

清水博さんが気球に乗ったときの感想。

風に乗っている気球の中では、普段聴こえる音が聴こえず、小川のせせらぎなど聴こえない音が聴こえる。

風に流れているがため、寒さを感じることは、意外にない。

一度、乗ってみたいなぁ

モブログはじめる

インプットとアウトプットのバランスをもうちょっと変えたいな〜、と思ったのでモブログはじめてみます。夜ころっと娘と寝ちゃうことが多いのでなかなかブログ書けない状態なのでした。

これはケータイのメールで書いてるので表現は貧弱です。リンクがなかったりといった感じで。

ここのところ、場の研究所の勉強会の録音を聴いてます。参加者の声が小さくて残念だけどかなり面白い。

ホームページのはwma形式だったので、mp3に変換して ipod touch に入れて通勤で聴いてます。

「場」の考え方を持って、個人の問題を考え、生きているという意識から生きていくという意識へと深化するような、そんな感じです。

聴いていてピンときたキーワードを書いてく、なんてのもいいかも。

という感じで進めていきます。

「個」と「場」といのちの話

ずっとブログを書こうと思っていたが、慣れない通勤で疲れきってしまっていたので書けなかった。
(最近は復職に向けて、慣らし運転のために通勤している)

「死生観」について、ここのところしばらく考えていた。
うまくまとまらなさそうなので、多分、脈絡の無い文章になることと思う。

ちょっと前に田坂広志さんの「未来を拓く君たちへ」を紹介した。

mixi にも同文を載せていたら、そっち側にコメントがあった。

そこには特に感想というものはなく、ただマイミクさんが自分のマイミクさんを紹介してくれていた。
紹介された先を訪れると前職の先輩に当たる方(面識は無い方)が、エーラス・ダンロス症候群という希少難病の可能性があり、患者会に参加しながら日々大変なご苦労の中で生活されているという日記に辿り着いた。
病気自体が医者にもあまり知られていないため非常に日常生活も含めて苦しんでおられるとのことであった。

その方の日記の中で、マイミクさんが「未来を拓く君たちへ」のポッドキャストを紹介してくださっており、いくつかやり取りを行う中で「場の研究所」について教えていただいた。

実際に勧められて聴いたのはこのページの中にある、6/15分の音声である。

6/19分はまだ聴いていないが、こちらは元ソニーの出井伸之氏も参加されているようだ。


田坂広志さんの講演(もしくは本)の内容と清水博さんのお話の類似点


答えのない問い、そこに何か大事なことが隠れている。

なぜ、いのち、が存在しているのか。
なぜ、こころざし、が必要なのか。

「認識」として、志とはこれこれこういうこと、という知識を持ってみてもそれだけでは意味が無く、

「存在」として、深く問う心がなければ、志を発揮することもできない。


いのち、について

場の研究所の勉強会の音声の中で、もっとも私が惹き付けられたのは、死を想うということ。

田坂さんの講演では「メメント・モリ」が出てくる。
これは、前からちょくちょく目にしていたが、そういうモノに最近またよく出くわす。
ちなみに田坂さんの講演では、我々がその生を終えるときに、礎となるという覚悟について語られている。
いつしか我々人類に戦争のないステージが待っているはずだという想いも。

清水さんの「場」の話では、「救済」という言葉が「死」と関連づけられて語られる。
仏教なども取り入れられた考え方のようだが、我々の「いのち」は二重生命として考えるべきということだ。
「個」としてのいのちが集合して、さらに大きないのちが存在している。

たとえば、我々人間と、地球の関係
もしくは、細胞個々と、ひとりの人間の関係

これら二重にかさなるいのちの間には空間が存在している、それが「場」である。

生命のシステムとして「場」に大きないのちのはたらきがあるはずである。
またいのちを考える際には「死」の果たす役割を考えなければならない。

いのちとは「死」含んだすべてのものを指し、超越した「存在」として捉えるべきである。

先日、奥さんの実家の愛犬が亡くなった。

もちろん悲しかったけれど、不思議なことに、今は大きな「いのち」の中に「存在」しているものとして妙な納得をしている。


「場」の中でねがいを合わせることで「救済」される

ここで「救済」についてだが、「場」の中に入り「ねがい」を合わせることで我々は補い合うことができる、と清水さんはおっしゃった。
ひとりの力には限界があり、他の誰かひとりを救うことも困難である。
しかし、「場」の中に入ることでたくさんの「ねがい」を合わせる、すなわち補いあう(お互い様)ことでひとりでは発揮できない力が生まれる。

そこでは「元気」が湧き出てくるのだ。

そして、そういう「場」であれば我々は作り上げることができる。

うつ病になってみて初めて、自らの「死」についてまともに考えた、というよりも身近に感じたといったほうが正しいかもしれない。
そのような自分の苦悩にまみれた状況の中において、同じ境遇の人間、同じ経験を持つ人間の心強さ、そういったものを感じずにはいられなかった。マイノリティとしての苦しみ、それを共有できる、もしくは同じ立場でない人であったとしても、知ってもらうというだけで力が湧いてくるという事実、実感があったからだ。

うまく言葉にはできなかったが、この難病を抱えて生きておられるマイミクさんのマイミクさんの言葉を見ても、やはりそう感じる。
私のマイミクさんの中には、他にも重い病気に苦しみながら、強く生きている人たちがいる。

私の病気はそれほど重くはないものでもあるが、そういった同じねがいを共有できる「場」を見つけられるかどうか、その中に入れるかどうか、ということについては、なんらかの苦しみを持つものにとっては重要なファクターであるように感じるのだ。
それをうまく表現することができないが、この清水先生の話を聴けば、それぞれ何か想うところがあるのではないかと思う。

いのちについて考えるとき、「死」の意味を問わずにはいられない。
そこに答えはないのだが、病気という苦悩から「救済」されたいとねがう心は、「死」の意味を突き詰めて考えることで元気をもらえる気がするのだ、なんとなく。

ただし、「場」は必要だろう、一人で考えこむには少し重すぎる。


「場」についてもっと知りたい

また、苦悩や苦しみを「救済」するという意味においての「場」としてだけではなく、職場や地域などにおいても「場」について真剣に考えて行く必要があると感じている。
これまでの自分は、職「場」の中で同じ「ねがい」を持つことが出来ていたか。

「場」とは何か、難しく理解できていないところも多い。
引き続き、勉強してみようと思っている。

清水博さんと松岡正剛さんのつながりがあるようなので、さらに興味深い。
結局うまく書けなかったけれど、これ以上アウトプットに時間を割くより、勉強を進めたいと思う。

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