特別ルールでの回避によるバランシング

1月にブログを書くことに関して自分ルールを定めたんですけれど、さっそく破ってしまいました。
具体的には、

その1: 月に3回(以上)書く。
その2: 一桁の日には必ず書く。
その3: 十何日の日には必ず書く。
その4: 二十何日の日には必ず書く。

ということで、3月に入ってその2を早速破ってしまったというわけです。
自律という意味ではルールを破ってしまったので反省しなきゃならないのだけれど、あんまりまじめに考え込むのもどうかなーというところもあって、特別ルールを追加することにしました。

特別ルール: 2~4のルールを破った場合、当月内はその1を4回(以上)書くと変更する。

これって、ブログに対する考え方を明確にして(さらには開示して)アウトプットをしっかり出していこうとする意図なんですけれど、アウトプットや成果を出すと言う意味では、仕事にせよ他の何かにせよ(子育てなんかもそうかも)結構共通して言えることなんじゃないかなと思いました。

人は何かアウトプットを出そうとした場合に、期限を決めたり条件を付けたりと、ルールを決めますね。そのルールに対して、きちんと守れない状況に陥ったとき、逃げ場がないと逆に(開き直るかは別として)その後の継続をあきらめてしまうことが往々にしてあるように思います。
そんなとき、柔軟にバランスを取っていくために、気持ちや心を和らげてあげるのは効果的なんではと。
和らげると言っても、前言撤回、というのは意図に反するところが出てくるので、追加ルール(もしくは罰則ともいえる)を設けることで、より元々のルールを守り、継続し力を付けていくことのフォローになるのではないでしょうか。

という長々とした言い訳とともに、この新たなルールをもって、今月は4回以上(あと3回以上)書きたいと思います。
(ザッカーバーグに関する本とか、陰山英男先生の本とか、そういうものを読んでいるので、アウトプットしたいことは結構あるんですけど、まとまって書くという時間を避けないようなバタバタした日常を送っています)

勇気を獲得するために

いつも聴いている学問ノススメポッドキャスト(ラジオ版 学問ノススメ Special Edition)の鈴木光司さん(リングの人)の回で、優しさは生来持ち合わせている(と考えられる)が、勇気については生来持ち合わせているものではなく、人生を歩んでいく中で、獲得していくしかない、という話が出てくる。
本編はここから再生可能。(ポッドキャストのホームページはこちら、この番組、その他も面白いコンテンツがたくさんでとってもお気に入り)

この話、3回くらい聞いたのだけれど(というのは、鈴木光司さんは結構パパしている人で、私も会員(正会員でなく登録会員だけど)になっている「おやじ日本」NPO法人化されたときの記念大会でパネリストなどもやっているので好感があった)、日々生活する中でこの「勇気」があったら、という場面に遭遇することが非常に多い。

ポッドキャストの中の話題は戦時中の特攻隊など、理不尽な空気感の中に置かれた人達の立場でもって、勇気について語られているが、日本の企業において年功序列と実力主義が中途半端に合い重なり、複雑な空気の上で微妙な優しさを持っていれば持っているほど、とてもとても「勇気」を振りかざす必要が”ありそうな”状況に陥るように感じる。

勇気を持って実行に移せるようにするには、どうすればよいのか。
失敗を恐れず、まずやってみる、というトライアンドエラーを習慣化させるしかないように思う。

ただし、言うは易く行なうは難しでとっても難しい。
マインドセットとしては、判断する前の「未来への恐怖の思考」と判断した後の「過去への後悔の思考」をなるべく封じ込める、結局のところ「今だけに集中」という考え方に辿り着くように思う。

「今ここ」に集中するという発想は、日に日に自分の中で強くなっていっている気がする。
自分の人生何年あるか分からないけれど、少しずつ在るべき方向に、自然体へと生き方・考え方を近づけていきたい。

ホントにやりたいことが例え見つからなくとも、自分を磨いていくことは出来るのだとなんとなく想う。

アウトプットいろいろ

前回10日(程度)に1回書くという縛りを思いついたのですけども、さっそくルールから逸脱しそうな感じなので、あわてて書いておきます。

ここでブログを書くようになった2年ほど前くらいから、ちょいちょいどういう内容を書くといいのかなーと考えることがあったのですが、とりあえず2年ほど書いてみて自分としてのブログとの付き合い方みたいなところで、思うところがなんとなくあるので、一度書いてみようかと。

そもそも自分とブログとの付き合いとしては、2004年6月が最初。当時ははてなダイアリーでちょくちょく書きながら手探りで感覚をつかんでみようという感じでした。知り合い含めて誰かにアドレスを教えるということもなく、ウェブに何か書くというのはいったいどういうことだろうかと意味もわからず書いてみた、というのが始まりです。こっぱずかしくて非公開にしてましたが、去年あたり公開にしてみましたが、2005年8月からはまったく書いてません。

同じぐらいの時期、ブログというのはなにかテーマを決めて書くのがよいのだろうな、と思い、別の場所でサーフィンのことを書くことにしました。こっちはテーマが決まってるので、サーフィンに行ったときにはちゃんと記録をとっておこうとマメに書いてましたが、ここ数年関西にUターンで戻ってきてからはサーフィンに行ってないので書けてません。

テーマを決めて書く、というところに結構メリットを感じたので、前職でマーケティングに関わる業務をしていたときに、マーケティングを勉強するためのブログも書いてみました。更新回数はほとんどなかったですけど、結構これも勉強になりました。

頭の中を整理する、と言う意味でブログは勉強内容(スポーツも振り返りと言う意味では勉強と似ている)をアウトプットするにはとても有効だと思います。

で、今書いてるここでのブログですけれど、もっとなんというか、自由に、枠のない表現をいろんなパターンで試したいなーと思っています。技術系とかIT系のことを書きたくなったら書いてみたいですし、人に見てもらうという意味ではキャッチーなITトレンドやニュース的なものを書いてもいいなーとも思います。文体も2年ほどやってみて定まらなかったので、あるときはですます調、またあるときは論調だったりもするでしょうけれど、どれも自分のある一部として大事にしたい部分であるので、こだわりなくいきたいですね。なんでも入りにできるようにと In My Life という名前を付けました。

2006年くらいからmixiもはじめたので、書くという意味ではそっちもとても勉強になりました。ただ、なかなか読み手の顔が思い浮かんでしまうというのは(リアルな友達がほとんどなので)逆に書く内容については制限を感じてしまうと言うこともあり、最近はあんまり書かなくなってしまいました。

何を書くにせよ、自分らしさというか、というものを出せるような何かを書きたいと思っていて、そういう意味ではごく日常にあるストーリーの中で、思うままに感じることを書くほうが、素敵なコンテンツになるような気がしています。というのも、いろんなブログを目にする中で(いつもGoogle Readerで時間のあるときに目を通すのですが)素敵な表現をしている方、というのは文章がうまい下手ではなく、日常の中の出来事において、とても自然な感情や想いが伝わってくるのです。

インターネットの海にtakeyasというIDを提示してからかれこれ6年以上経つわけですが(Twitterをはじめとしていろんなところに同じIDで登録しています)、日常での人と人の間の生活と同じで、インターネットの中でも自分というものをちゃんと出していくことで、そこに素敵な出会いがあり、素敵な人間関係が築かれていくように思います。

ちょっとブログの話から遠ざかったかもしれないけれど、今日はこの辺で。

P.S.
 前回書いた次女のシールの見込み事件ですけども、見事4日後くらいにう○ちと一緒に出てきました。めでたしめでたし^^

2011年 新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。
だいぶ遅ればせながら、こちらでも新年のご挨拶を。

ここでブログを始めてから二回目の新年を迎えることになりました。
去年に引き続き、インターネット上のブログなどから新年のエントリーを抽出してみました。どれもGoogle Readerに登録してあるか、もしくはフォローしている方から共有されたエントリーになります。
沢山の方の、新年にかける想いのようなものが見えて、収集しているととても面白いです(仕事中のスキマ時間にGoogle Reader上でタグ付けしてまとめていました^^; 現時点でまだ元旦まで遡りきれていないので、今後も追加していく感じです。)
何時の間にか登録しているブログが増え過ぎてきていることもあるので、少し整理しなきゃなーと思っています。

今年も年始には目標は立てず、のんびりいきたいと思いますので、徐々に増えてきたインターネットでお世話になっているみなさま、今年もマイペースな私をよろしくお願いします(^^)

みなさまにおかれましても、素晴らしい一年を過ごされますように。


家族という生命体

今月は久しぶりにたくさん働いているので、気づいたらブログを1日に書いただけでした。

というわけで、こないだ帰り道にふと思ったことを記しておこうと。
地球をひとつの生命体としてみるガイアという考え方がありますけども、家族についてもそんなふうな意味合いがなんとなく感じられるなぁと。

場の研究所の清水さんの講義では、よく「一人の人間」ということをとっても、場の中でたくさんの細胞が空間の中において、一日のうちにでも死・再生を繰り返しながら生きているのだ、という喩えを持って、地球や場の生命としての二重生命的な考え方を説明されています。

家族というのは地球ほどのスケールもないので、死・再生ということに関しては少し遠ざかるのですが(家系とかレベルで見たらそうかもしれませんけど)、新生児からちょっと抜けた7ヶ月の赤ちゃんと、乳児からは抜けた3才過ぎの幼児と暮らしていると、とてもそれぞれの時期で、親に対して在るフィードバックの感覚が違っているのがわかります。

例えば、赤ちゃん。
赤ちゃんと暮らす日々は、親にとても「五感」の大切さを教えてくれます。なんでも舐めて感触を確かめる姿、離乳食もそうですが、言葉がしゃべれない分、どんなふうに感じ取っているのだろう、を考えると、親側の五感も鋭敏になっているような気がします。

幼児に関しては、欲望、とても素直な、これやりたい、あれやりたい、を言葉で表現した、純粋な欲求に関する感覚が、親側でも鋭敏になっていくような気がしています。

まだまだ子供たちは外から得てきた知識なんかを家にもって帰ってくるようなことはないのだけれど、家という場の中で、同じ時間をたくさん過ごしていくことは、自分の人生という視点で見てみても、なんだか新しくて古いなにかを得ているような、そんな感覚です。

成長というのは、個人単位で考えることではなくて、こういう場全体の成長ということなのかもしれません。
なんだか分かりにくいかもしれないけれど、今小さい子供をかかえて、自分の時間が少ない状況だと、知識や仕事のスキル、みたいなものというのは、成長の伸びは鈍化していくはずです。だけれど、五感の鋭さが回帰するであったり、欲求に対する直感みたいな、他のものが成長しているような、そんなことが言えるのかも。

うまく表現はできないけれど、家族というひとつの生命体としてみたら、ものすごく成長していて、それは子供の成長を支えているから、親の成長が止まっているというわけではなくて、やっぱり個々が伸びて、全体が伸びる、ということなんでしょうね。

ちょびっとでも伝われば幸いです。

感謝の気持ちの在りよう

とても嬉しい出来事がありました。

次女の誕生祝いに、東京で過ごしていた頃に一緒にテニスをしていた仲間たちからプレゼントが届いたのです。

お祝いのカードには、直筆のメッセージが十数枚もはさんでありました。
ひとつひとつ、とても心のこもった、とても有り難いメッセージでした。
中には、長女と同じ時期に生まれ、3才になりたての男の子からのメッセージもありました^^

デジタルの時代だけれど、直筆の配慮をしてもらったおかげで、600kmの距離をびゅーんと超えてとても身近に感じることができているのだということがわかりました。

想いというものは、アナログなものに、より宿るのでしょうね。
面と向かって話すときのしぐさや声と同じように、直筆の中にその人その人の特徴があり、姿が自然と思い出されます。

離れてから2年半ほどたっても、あの頃よく遊んでたことがありありと蘇ってくるようです。
うまく言えないけれど、今在る自分に感謝することが、メッセージをくれた仲間たちへの感謝につながるような気がしています。
距離を越えて、空の向こうでつながっているんだなぁということが、不思議なことにとても実感できたのです。
今日の帰り道、ちらりと中秋の名月を見て、月は向こうからも同じく見えるだろうなぁ、とふと思ったからかもしれません。

御礼のメールをしたけれど、感謝の気持ちは直接会って返したい。
遠くない未来に、また会えることを目標にして。

娘たちにも、パパとママの素敵な仲間たちをしっかりと見て、接してもらいたいなぁ。

Posted using Mobypicture.com

伝えると伝わる

表現するって何だろう。
伝えたいと思うことは沢山あるような気がするのに、手を動かして何かを書こうとしたその瞬間に、たいていの事はどうでもいいこととしてふわりと宙に消えてしまう。

ニュースキャスターの安藤優子さんが、テレビの前の人へ伝える事は、言葉だけでなく、例えばあるニュースに対して眉一つ動かす事すらメッセージになると、だから全身に神経を集中して指先まで、表現するってことに気をつけなければならないと言っていた。

文字だけで沢山の想いを書き連ねて始めて伝わる事もあれば、写真一枚でとても沢山のことが伝わることもある。

いつ、だれに、どこでどうやって伝えるのか、本来大切な事をちゃんと伝える(伝わる)には、目、耳、鼻、口、手や足など、総ての感覚を持てる同じ「場」に存在するという事がとても大事なんだなぁーとふと思った。

よく知ってる人とも、あまり知らない人とも、全く知らない人でさえも簡単にコミュニケーションが取れてしまうツールの揃った時代だからこそ、大切な事をちゃんと考えていきたい。

友達にも直に会いたいなぁ、たまには。

最近のよしなし事

たまにはPCからブログを書いてみます。
最近は朝の通勤電車でケータイから書くことが多いけれど、圧倒的に文字数が少ないので、言いたいことの半分くらいしか言えない感じです。
とはいえ、その半分の内容から、全体がイメージできるような書き方ができないものかなーと思ったりしてて、その辺は腕を上げていかねばと思う今日この頃であります。

いつもインプットとアウトプットのバランスが難しいなぁと思っているのですが、たまにはこうしてダラダラ書いてみるということが大切だなぁと思います。
インプットばかりではまとまった考えも出ていくことがなく、思考は自分の中でぐるぐる廻るうちに大体シュリンクして消えていきます。

なんか思いついたらメモして残しておくべきなんですが、なかなかそうはいかず。
例えば朝の通勤電車でなんか書くことあったのに、と思い出しても、その時には思い出せない、という状況が多いのです。
あのとき考えてたこと、というのはあのときに置き去りにされて、またふとしたタイミングで現れるものの、朝の通勤電車では思い出せません。

思いついた時のメモ、というのは結構大事さも分かっているのになかなかできない。
そもそも何かを表現する、というスタイルにまだまだ馴染んでいないのが大きいところかもしれませんけども、ある意味クリエイティブな仕事をする人はみんな、きっと思いつきをストックするメモ帳みたいなもんがあるんじゃなかろうか、と思ったりしました。

そんでまあ、ちょっと思い出してみましょう、書いてみたかったこと。

  • モノの見え方の深さについて(体験から来る想像力の個人差)
  • 同じ場(職場)に永く留まることでみえてくる(であろう)ものについて
  • GTD的な考え方が心に余裕を生むのかどうか
  • 安定的な職業と専門性の追求のあいだにあるもの
  • Web上とリアルの親密度のステップアップの相違
  • アウトプットのカタチと受け取りスキル
  • かけたコストに没頭する時間の比率(コストパフォーマンス的感覚)
  • なんだかタイトルだけでお腹いっぱいになったので、書くのはやめましょう。
    なにか感じる、というのは大体何かを目にした、耳にしたときに発生しますよね。
    テレビなりラジオかもしれないし、ウェブサーフィンしてるときかもしれません。
    ふわっと入ってくるインプットが、今までの経験や情報と頭の中でつながって、タイトル的なものが浮かぶのです。

    とにかく、このようなちょこっと感じること、というのを日々メモし、朝の通勤電車で2,30行くらいでアウトプットしていきたいなぁ、と思うわけであります。

    メモかぁ、やっぱり evernote でももう少しちゃんと使うかな。

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    コトバと情報

    ケータイでこうしてブログを書いていると(いつも通勤電車の中でメールから書いている)、写真やリンクもない、基本的にはただの走り書きになります。

    ただ、その時の心の動きや、素直な気持ちを綴っておきたいなとは思っているわけです。

    いつも読んでいる田坂広志さんのメルマガで似たような感覚のものが届いたので、転載しておきます。

    ——-

    情報社会の逆説

    インターネット革命、ブロードバンド革命、
    ウェブ2.0革命と続く
    情報革命の深化は、
    我々に何を求めているのか。

    そのことを考えるとき、
    いま、多くの草の根の人々が
    自由にメッセージを発信している姿が、
    目に入ってきます。

    自分の個人サイトを開設して情報発信をする人々。
    ブログを使って、毎日、個人日記を公開する人々。
    ネット・ラジオを使って、個人放送局を持つ人々。
    コミュニティの掲示板に書評や映画評を書く人々。

    それは、
    誰でも手軽に、瞬時に、そして自由に、
    自分のメッセージを世の中に発信できる
    素晴らしい時代の到来を意味しているのでしょう。

    しかし、その時代の素晴らしさの一方で、
    いま、世の中には、
    「メッセージの洪水」が起こり、
    「玉石混交の言葉」が氾濫しています。

    そして、その現象を見るとき、
    我々は、そこに、
    情報社会の一つの逆説が生まれてくることに
    気がつきます。

    この情報社会において
    我々に求められるのは、
    多くのメッセージを語る力ではない。
    多くの言葉を語る力ではない。

    「言霊」を語る力。

    短くとも、
    心に残る言葉、
    胸を打つ言葉、
    腹に響く言葉。

    そうした言葉を語る力こそが
    いま、求められているのでしょう。

    2005年7月18日
    田坂広志

    ——-

    誰かのコトバを引用するときに、どこらへんまで共感しているのか、というあたりの感覚が難しいですね。

    ただいまと無意識

    うちに帰って家族が迎えてくれる、というときの情景がふと思い浮かびました。

    今読んでる本の中で今の中にいると心の動きが活発である、という話が出てきます(禅とか神道とか仏教とかの話)
    過去の出来事を思考(意識)して未来を考えるような、予定・計画にとらわれ過ぎることなく、変化のある、今、を無意識に流れるように楽しむ、みたいな趣旨だと思います。

    仏教だとかいうジャンルに関わらず、こういう心の有り様に関する表現によく遭遇するようになりました。
    自分で引き寄せているような気もしますが、こうよく目にするというのは自分の人生に対するなんらかのメッセージのようにも感じます。

    仕事だけじゃなく、家庭や生活の中でも大変なことはたくさんあります。

    ただ、ふと思いついたのは、我が家という場のドアを開けて、家族の姿を見つけ、ただいま、と言っているその瞬間、まさしくただ今の中にいて、心穏やかな状態なのかもしれないなぁとふと思いました。
    そこには過去も未来もなく、今だけがあるような。

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